繁忙期に従業員から退職の申出を受け、引継ぎがなされないまま出勤しなくなり、取引先の喪失や残存従業員の過重負担といった損害が生じる事案は、中小企業の労務相談の中でも感情的対立が最も先鋭化しやすい類型の一つです。厚生労働省「令和6年度個別労働紛争解決制度の施行状況」によれば、総合労働相談コーナーへの相談件数は120万1,881件と5年連続で120万件を超え、民事上の個別労働関係紛争の相談内容では「いじめ・嫌がらせ」54,987件に次いで「自己都合退職」が41,502件で第2位を占め、「解雇」の32,059件を上回っています。退職の場面をめぐる紛争は、解雇をめぐる紛争より件数が多いのが実情です。
使用者側からは「退職を引き留められないのか」「引継ぎをしなかった従業員に損害賠償を請求できないのか」という相談が寄せられますが、法律上の結論は比較的明確です。期間の定めのない労働契約における退職は民法627条1項により申入れから2週間で成立し、使用者はこれを阻止できません。他方、退職の効力発生までの間は労働契約が存続しているため、正当な理由のない労務不提供や引継ぎ懈怠は債務不履行を構成し得ますが、損害賠償が認められるか否か、認められるとしてその額は、使用者が引継ぎ義務の内容を具体化し相当な指示を行っていたか、損害と因果関係を立証できるかによって決まり、かつ信義則により大幅に制限されます。本稿では、①退職の自由と引留めの限界、②引継ぎ懈怠を理由とする損害賠償請求の法的構成と裁判例、③裁判所の判断基準、④使用者が平時に整備すべき実務対応を整理し、企業が点検すべき事項とFAQを示します。
1 退職の自由と引留めの限界
(1)民法627条1項 ― 申入れから2週間で退職が成立する
民法627条1項は、当事者が雇用の期間を定めなかったときは各当事者はいつでも解約の申入れをすることができ、雇用は解約の申入れの日から2週間を経過することによって終了すると定めています。正社員のような無期労働契約の従業員については、使用者の承認の有無にかかわらず、退職の意思表示が使用者に到達した日から2週間の経過により労働契約が終了します。使用者が退職を「引き留める」ことは、条件の見直しや退職日の調整を提案し合意を得るという交渉の限度で可能であるにすぎず、従業員の意思に反して在職を強制する法的手段は存在しません。
(2)就業規則の退職予告期間の効力
就業規則に「退職する場合は1か月前までに申し出なければならない」といった規定を置く企業は多数あります。このような規定を設けること自体は差し支えなく、円滑な引継ぎのための協力を求める基準として機能しますが、民法627条1項の2週間を超える予告期間を従業員に強制する効力は認められないと解するのが裁判例の基本的な方向であり、厚生労働省のモデル就業規則(令和7年12月版)第52条の解説も、期間の定めのない雇用の場合、会社の承認がなくても民法の規定により退職の申出をした日から起算して原則として14日を経過したときは退職となると明記しています。就業規則の予告期間は「協力を求める基準」であって、2週間で退職した従業員を就業規則違反として責任追及する根拠にはなりません。後述のプロシード事件では、就業規則に90日前の予告義務と引継ぎ義務、違反時の減給規定を置いていた企業の損害賠償請求が全部棄却されています。
(3)違法となる引留め行為
交渉の域を超えた引留めは、次のとおり法令違反となります。第一に、退職届の受理拒否です。退職の意思表示は使用者に到達した時点で効力を生じるため、受領を拒んでも2週間の期間は進行し、法的な意味はありません。第二に、「辞めるなら損害賠償を請求する」と威迫して就労を継続させることです。労働基準法5条は、暴行・脅迫・監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって労働者の意思に反して労働を強制することを禁じており、違反には1年以上10年以下の拘禁刑又は20万円以上300万円以下の罰金という同法で最も重い罰則が定められています(117条)。第三に、「期間途中で退職した場合は違約金○万円を支払う」といった合意をさせることです。労働基準法16条は労働契約の不履行について違約金を定め又は損害賠償額を予定する契約を禁止しており、当該合意は無効であるうえ、6か月以下の拘禁刑又は30万円以下の罰金の対象となります(119条1号)。第四に、離職票や退職証明書の不交付です。事業主は被保険者でなくなった事実のあった日の翌日から起算して10日以内に雇用保険被保険者資格喪失届を離職証明書とともに公共職業安定所長に提出しなければならず(雇用保険法施行規則7条1項)、離職者から求職者給付の受給に必要な証明書の交付を請求されたときは交付義務を負います(雇用保険法76条3項)。退職証明書についても、労働者の請求があれば遅滞なく交付しなければなりません(労働基準法22条1項)。
2 引継ぎ懈怠を理由とする損害賠償請求 ― 法的構成と裁判例
(1)法的構成
退職の申入れから効力発生までの2週間は労働契約が存続しているため、従業員は労務提供義務を負っており、正当な理由なく出勤せず引継ぎも行わない場合、債務不履行(民法415条)に基づく損害賠償請求が理論上可能です。態様が悪質であれば不法行為(民法709条)の構成もあり得ます。したがって「損害賠償を請求できる場合はある」というのが結論ですが、以下の裁判例が示すとおり、その範囲は信義則により大幅に制限され、かつ使用者側の準備の有無が結論を左右します。
(2)茨城石炭商事事件(最高裁昭和51年7月8日第一小法廷判決) ― 信義則による賠償範囲の制限
従業員に対する使用者の損害賠償請求の範囲について、最高裁昭和51年7月8日判決(昭和49年(オ)第1073号・茨城石炭商事事件)が基本的な判断枠組みを示しています。石油等の輸送・販売会社の従業員が業務上タンクローリーを運転中に追突事故を起こし、会社が被害者に賠償した損害等の全額を従業員に求めた事案で、最高裁は、使用者が被用者の加害行為により損害を被った場合、使用者は「その事業の性格、規模、施設の状況、被用者の業務の内容、労働条件、勤務態度、加害行為の態様、加害行為の予防若しくは損失の分散についての使用者の配慮の程度その他諸般の事情に照らし、損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められる限度において」賠償又は求償を請求できるにすぎないとし、使用者が業務用車両を多数保有しながら対物賠償責任保険等に加入していなかったこと等の事情のもとでは、損害の4分の1を限度として請求し得るにとどまるとしました。使用者は従業員の労働により利益を得ている以上、業務に伴って生じた損失を従業員に全部転嫁することは許されないという考え方であり、この枠組みは引継ぎ懈怠を理由とする損害賠償請求にもそのまま妥当します。
(3)ケイズインターナショナル事件(東京地裁平成4年9月30日判決) ― 請求は認容されたが約3分の1に減額
室内装飾等を目的とする会社が、取引先との契約に基づく業務を単独で担当させるために採用した従業員が突然退職したことにより損害を被ったとして、従業員が支払いを約束した200万円の賠償を求めた事案です。裁判所は、期間の定めのない雇用契約においても退職の効力が生じるまでは労務提供義務があるとして請求を認めましたが、会社が失った得べかりし利益は1,000万円余であるものの給与その他の経費を差し引けば実損害はそれほど多額ではないこと、会社が従業員の人物・能力等をほとんど調査することなく紹介者の言を信じて採用し単独で業務を担当させた点で採用・労務管理に欠ける点があったこと、民法627条の予告期間との関係で債務不履行責任を追及し得る期間が限定されること等を考慮し、信義則により賠償額を約定額の約3分の1である70万円に限定しました。請求が認容された事案においてさえ、使用者側の落ち度が減額要素として大きく作用しています。
(4)プロシード元従業員事件(横浜地裁平成29年3月30日判決) ― 全部棄却と提訴自体の違法性
ソフトウェアの設計・製造等を目的とする会社が、精神的不調を理由に退職を申し出て引継ぎをしないまま退職したシステムエンジニアに対し、躁うつ病という虚偽の事実をねつ造して退職し、就業規則に違反して引継ぎをしなかったことが不法行為に当たるとして、1,270万5,144円の損害賠償を求めた事案です。会社の就業規則には、退職の90日前までの予告、引継ぎの実施、違反時の減給という規定が置かれていました。裁判所は、従業員は退職の話をし始めた時点で既に不安抑うつ状態にあったと窺われ、その者が躁うつ病である旨を述べたとしても虚偽とはいい難いとして、不法行為の成立も損害も認めず、会社の請求を全部棄却しました。さらに従業員からの反訴について、訴えの提起は、主張した権利が事実的・法律的根拠を欠き、提訴者がそのことを知りながら又は通常人であれば容易に知り得たのにあえて提起したなど裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に違法となるとしたうえで、会社の主張する損害が生じ得ないことは通常人であれば容易に知り得たにもかかわらず、従業員の月収の5年分以上に相当する約1,270万円もの賠償を請求したことは著しく相当性を欠き違法な行為となるとして、会社に対する損害賠償請求を一部認容しました。就業規則に引継ぎ義務と予告期間を定めていても、その規定の効力自体に疑義がある(2週間を超える予告期間の強制、減給という制裁)うえ、退職の事情を無視した高額請求は提訴自体が不法行為と評価され得ることを示した事例です。
3 裁判所の判断基準 ― 損害賠償が認められるための3要件
(1)引継ぎ義務の内容が具体化されていたか
就業規則の「退職に際しては業務の引継ぎを完了しなければならない」といった規定は抽象的であり、これだけでは従業員が何をすれば義務を履行したことになるのかが特定されません。裁判所が見るのは、退職の申出を受けた後に使用者が「誰に、何を、いつまでに」引き継ぐよう具体的に指示したかどうかです。指示がなければ、従業員が引継ぎを行わなかったとしても義務違反を観念することができず、従業員が2週間で退職できる以上、その期間内に求める業務の内容を特定する責任は使用者側にあります。
(2)指示の内容が相当であったか
具体的な指示があっても、2週間で到底完了しない分量を要求したり、無効な予告期間規定を根拠に「3か月は退職させない」として長期の引継ぎを強要したりする指示は相当性を欠きます。年次有給休暇の消化を前提に、退職日までの実際の出勤可能日数の範囲で現実的に実施可能な引継ぎを求めていたかが問われます。裁判所は法律の枠を超えた要求には応じません。
(3)損害額と因果関係を使用者が立証できるか
損害は失われた売上ではなく、経費を控除した利益を基礎として算定されます。また、取引先の喪失が引継ぎ懈怠によるものか、後任者の能力や取引先側の事情によるものかという因果関係の立証は実務上最も困難であり、具体的な引継ぎ指示があって初めて「どの行為の懈怠がどの損害を生じさせたか」を特定することが可能になります。加えて、茨城石炭商事事件の枠組みのもとでは、業務の属人化を放置し損失分散の配慮を欠いていたという使用者側の事情は賠償額を減額する方向に働きます。なお、「引継ぎをしなかった場合は○万円を支払う」という定めは労働基準法16条により無効であり、退職金の不支給・減額についても、退職金規程に根拠があり、かつ従業員の長年の功労を抹消するほどの著しい背信行為がある場合に限って許容されるのが裁判例の傾向です。
4 使用者が整備すべき実務対応
(1)引継ぎ指示書の書面交付と記録化
就業規則の引継ぎ規定を土台としつつ、退職の申出を受けた当日に、引継ぎ項目・引継ぎ相手・期限を記載した引継ぎ指示書を書面で交付し、従業員の受領署名を得ることが出発点です。進捗は日付入りのチェックリストで記録し、未了事項があれば都度書面又はメールで指摘します。これにより3(1)の義務の具体化と3(3)の因果関係の立証可能性が確保されます。分量は退職日までの出勤可能日数で現実的に完了する範囲にとどめ、3(2)の相当性を損なわないようにします。
(2)退職予告期間とインセンティブの設計
就業規則に「1か月前」の申出を求める規定を置くことは有効ですが、2週間を超える強制はできません。したがって制裁による強制ではなく、協力に対するインセンティブとして設計することが現実的です。たとえば退職金規程において、会社と合意した退職日まで勤務し引継ぎを完了した者に対する加算を定める方法が考えられます。労働基準法16条が禁止するのは不履行に対する違約金・損害賠償額の予定であり、履行に対する上乗せ支給は同条の問題を生じません。他方、「引継ぎをしなかった者には退職金を支給しない」という規定は、前記のとおり背信性が相当高い場合にしか適用が認められないため、過度に依拠すべきではありません。
(3)年次有給休暇の調整
退職予定者が退職日までに残日数の年次有給休暇を取得する権利は在籍中である限り認められ、使用者の時季変更権(労働基準法39条5項)は他の時季に与える権利であるため、退職日より後に時季を変更することはできず、繁忙期を理由に退職前の年休取得を拒むことはできません。使用者ができるのは、「退職日までのうち最初の一定期間は出勤して引継ぎを行い、その後に年休を消化する」という順序や、退職日を後ろに繰り下げて引継ぎ日数を確保することについて従業員と合意することです。退職により消滅する残日数に応じて事後的に金銭を支給することは、年休の事前買上げとは異なり禁止されていないと解されていますので、「引継ぎのために出勤する代わりに残日数分を支給する」という提案も、合意ベースであれば選択肢になります。
(4)属人化の解消と退職代行への対応
引継ぎをめぐる紛争の根本原因は業務の属人化にあります。顧客ごとの対応履歴を共有ツールに記録する、業務マニュアルを整備する、主要顧客は複数担当制とするといった平時の取組みが、「訴訟に勝つ準備」ではなく「訴訟を要しない準備」として最も費用対効果が高い対策です。東京商工リサーチの2026年4月の調査では、2024年1月以降に退職代行業者を利用した従業員の退職があった企業は8.7%(大企業21.3%)、2025年6月の同社調査では、退職代行による退職があった企業の31.1%が「退職者の業務カバーのため従業員の残業が発生した」、23.4%が「引継ぎが円滑にできず商品・サービスの提供に影響が出た」と回答しています。退職代行からの連絡は本人を介さず突然届くため、引継ぎ指示書を交付する相手すらいないという事態が現実化しています。弁護士でない退職代行業者は退職日や年休に関する交渉を行うことができず、本人の退職意思が確認できれば退職自体は2週間で成立するため、交渉を伴う連絡に対しては「本人又は弁護士からの連絡であれば対応する」と回答すれば足ります(退職代行業者と弁護士法との関係は、当事務所コラム「退職代行『モームリ』事件判決と非弁提携の法的整理」を参照してください)。帝国データバンクの集計では、従業員や経営幹部の退職が要因となった「従業員退職型」の倒産は2026年1〜7月で83件、前年同期比約12.2%増で5年連続の増加となり、単年で過去最多の更新が確実とされています。一人の退職で事業が傾く構造そのものを変えることが、本質的な対策です。
(5)自社規定の限界を把握する
退職金規程や就業規則の予告期間・引継ぎ規定は、法律上のルールに劣後し、相当性を欠く場合には無効と判断されます。「規程に3か月前と定めているから3か月間は退職させない」「引継ぎ未了を理由に退職金を不支給とする」といった運用は、規定の効力を過信した結果として紛争を招く典型例です。自社の規定で工夫できる範囲とその限界を把握したうえで、引継ぎ指示書のひな形、退職金規程の加算設計、退職代行からの連絡への対応手順を平時に整備しておくことが必要です。
企業が点検すべき事項
- 就業規則の退職条項が、民法627条1項の2週間を超える予告期間を強制する内容になっていないか。「1か月前」の規定を協力を求める基準として運用しているか。
- 退職の申出を受けた当日に交付する引継ぎ指示書(項目・相手・期限・受領署名欄)のひな形が整備されているか。
- 引継ぎの進捗を日付入りのチェックリストで記録し、未了事項を書面又はメールで指摘する運用になっているか。
- 引継ぎ指示の分量が、年次有給休暇の消化を前提とした実際の出勤可能日数で完了する範囲に設定されているか。
- 労働契約書・誓約書・就業規則に、退職時の違約金や損害賠償額の予定(労働基準法16条違反)に当たる条項が含まれていないか。
- 退職金規程が、引継ぎ完了者への加算というインセンティブ型になっているか。不支給・減額規定に過度に依拠していないか。
- 退職予定者の年休取得を拒否せず、出勤期間と年休消化の順序や退職日の繰下げを合意により調整する手順が定められているか。
- 雇用保険被保険者資格喪失届(退職日の翌日から10日以内)、離職票、退職証明書の交付を遅滞なく行う事務フローが確立しているか。
- 主要顧客・基幹業務について複数担当制、対応履歴の共有、マニュアル整備がなされ、特定の従業員の退職により業務が停止しない体制になっているか。
- 退職代行業者から連絡を受けた場合の対応手順(本人の退職意思の確認、交渉を伴う連絡への対応方針、弁護士への相談ルート)が定められているか。
よくあるご質問
Q. 就業規則で「退職は3か月前に申し出ること」と定めています。繁忙期に2週間で辞めると言う従業員を引き留められますか。
A. 引き留められません。期間の定めのない労働契約では、民法627条1項により退職の申入れから2週間を経過すれば労働契約は終了し、就業規則で2週間を超える予告期間を強制することはできないと解されています。厚生労働省のモデル就業規則の解説も、会社の承認がなくても申出から原則として14日の経過により退職となると明記しています。できるのは、退職日の繰下げや条件の見直しを提案して合意を得る交渉までであり、退職届の受理拒否、損害賠償を示唆する威迫、違約金の約束、離職票や退職証明書の不交付はいずれも法令違反となります。
Q. 引継ぎをせずに退職した従業員のせいで取引先を失いました。損害賠償を請求できますか。
A. 請求できる場合はありますが、認められる範囲は限定的です。退職の効力が生じるまでの期間に正当な理由なく労務を提供せず引継ぎも行わなければ債務不履行となり得ますが、最高裁の茨城石炭商事事件判決の枠組みにより、使用者が従業員に請求できるのは損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められる限度に制限されます。認容例のケイズインターナショナル事件でも、賠償額は会社側の採用・労務管理上の落ち度等を考慮して約定額の約3分の1に減額されました。さらに、引継ぎ指示を具体的に行っていなかった場合や、取引先喪失と引継ぎ懈怠との因果関係を立証できない場合には、請求は認められません。
Q. 就業規則に引継ぎ義務を定めていれば、裁判では有利になりますか。
A. 定めているだけでは足りません。プロシード元従業員事件では、退職の90日前の予告、引継ぎの実施、違反時の減給まで就業規則に定めていた会社の約1,270万円の請求が全部棄却され、月収の5年分以上に相当する高額請求をしたこと自体が従業員に対する違法な行為と認定されて、会社が反訴で損害賠償を命じられました。裁判所が重視するのは、退職の申出後に使用者が「誰に・何を・いつまでに」という具体的かつ相当な引継ぎ指示を行い、その記録を残していたかどうかです。就業規則は土台にすぎず、個別の指示書と記録が決め手になります。
Q. 退職前に残っている有給休暇を全部使うと言われました。繁忙期なので拒否できますか。
A. 拒否できません。使用者の時季変更権は他の時季に年休を与える権利であり、退職日より後に変更することはできないため、退職予定者の年休取得請求は認める必要があります。対応としては、退職日までのうち最初の一定期間は出勤して引継ぎを行い、その後に年休を消化するという順序を提案する、退職日の繰下げに合意して引継ぎ日数を確保する、退職により消滅する残日数について事後的に金銭を支給する代わりに引継ぎのための出勤を依頼するといった方法を、いずれも従業員との合意により行うことになります。
まとめ
期間の定めのない労働契約における退職は、民法627条1項により申入れから2週間で成立し、使用者はこれを阻止できません。就業規則の予告期間は協力を求める基準にとどまり、退職届の受理拒否、損害賠償を示唆した威迫、違約金の合意、離職票・退職証明書の不交付は、それぞれ労働基準法5条・16条・22条、雇用保険法76条3項等に違反します。引継ぎをせずに退職した従業員に対する損害賠償請求は、退職の効力発生までの労務提供義務の不履行として理論上可能ですが、茨城石炭商事事件の信義則による制限のもと、認容例でも約3分の1への減額、就業規則に引継ぎ義務を定めていた会社の全部棄却と提訴の違法認定という裁判例が示すとおり、結論を左右するのは「誰に・何を・いつまでに」という具体的な引継ぎ指示、その相当性、利益ベースの損害と因果関係の立証という使用者側の準備です。平時に整備すべきは、退職の申出当日に交付する引継ぎ指示書と記録の運用、制裁ではなく加算による退職金規程の設計、年休の合意による調整、属人化の解消と退職代行への対応手順であり、自社の規定の限界を把握したうえで「訴訟に勝つ準備」と「損害を出さない準備」を併せて進めることが求められます。当事務所では、就業規則の退職・引継ぎ条項の見直し、引継ぎ指示書・チェックリストのひな形作成、退職金規程の設計、退職代行業者からの連絡への対応、退職した従業員への損害賠償請求の可否判断と交渉・訴訟対応まで、顧問契約の中で継続的に支援しています。
参考資料
- 民法(e-Gov法令検索)/労働基準法(e-Gov法令検索)/雇用保険法(e-Gov法令検索)/雇用保険法施行規則(e-Gov法令検索)
- 裁判所 裁判例検索「昭和49(オ)1073 損害賠償請求」(最高裁第一小法廷 昭和51年7月8日判決・茨城石炭商事事件)
- 公益財団法人 全国労働基準関係団体連合会 労働基準判例検索「ケイズインターナショナル事件」(東京地裁平成4年9月30日判決・労働判例616号10頁)/同「プロシード元従業員事件」(横浜地裁平成29年3月30日判決・労働判例1159号5頁)
- 厚生労働省「モデル就業規則(令和7年12月版)」(PDF・第52条解説)/厚生労働省「モデル就業規則について」
- 厚生労働省 労働契約ポータルサイト「労働契約の終了」/厚生労働省 沖縄労働局「労働相談事例 年休Q1 退職予定者には年休を与えなくてもよいか」
- 厚生労働省「令和6年度個別労働紛争解決制度の施行状況」を公表します
- 東京商工リサーチ「『退職代行』からの連絡、企業の3割取り合わず」(2026年4月調査)/東京商工リサーチ「『退職代行』による退職、大企業の15.7%が経験」(2025年6月調査)
- 帝国データバンク「『従業員退職型』の倒産動向(2026年1-7月)」
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本コラムは一般的な情報提供を目的とするものであり、個別の事案に対する法的助言ではありません。実際のご対応にあたっては、最新の法令をご確認のうえ、専門家にご相談ください。
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