中核となる従業員の退職について、経営者から「突然のことだった」との相談を受けることは少なくありません。しかし、退職の意思は一日で形成されるものではなく、その過程では、職場での行動に一定の変化が現れるのが通常です。厚生労働省の令和7年雇用動向調査によれば、1年間の離職率は13.7%であり、常用労働者のおよそ7人に1人が1年の間に離職しています。退職は、いずれの企業においても恒常的に生じる事象です。
本稿では、①退職兆候を把握することの法的な意味、②退職意思の形成を示す三つの兆候、③兆候を把握した使用者の対応と年次有給休暇の利用目的、④離職防止のための組織上の対応、⑤退職後に顕在化する法的リスクと事前の備えの順に整理し、点検事項を示します。
1 退職兆候を把握することの法的な意味
期間の定めのない労働契約において、労働者はいつでも解約の申入れをすることができ、申入れの日から2週間を経過することにより契約は終了します(民法627条1項)。就業規則に「退職は1か月前までに申し出ること」との定めを置いていても、使用者が退職そのものを拒むことはできません。使用者にとって、退職の申出を受けた後に採り得る法的手段は、極めて限られています。
したがって、離職の防止は、退職の意思が形成される前の労務管理によって行うほかなく、退職に伴う紛争への備えも、在職中に整えておくほかありません。退職の兆候を早期に把握することには、①離職防止のための対話の機会を確保すること、②業務の引継ぎ・後任の手当てに要する時間を確保すること、③退職後の紛争に備えた記録と合意を整えることという、三つの意味があります。
2 退職意思の形成を示す三つの兆候
(1) 職場での雑談・交流の減少
同僚との雑談、昼食、懇親の場への参加は、当該職場で就労を継続することを前提とした人間関係の形成・維持の行動といえます。退職の意思を固めた従業員には、この関係を維持する動機が乏しくなり、昼食を一人でとる、懇親の場に参加しない、自席で会話を交わさず作業に入るといった変化が、多くは無意識のうちに現れます。前記調査においても、転職入職者が前職を辞めた理由として「職場の人間関係が好ましくなかった」を挙げた者は男性8.9%、女性11.5%であり、個別の理由の中で上位に位置しています。職場の人間関係から距離を置く行動は、離職の兆候として軽視できません。
(2) 半日単位・時間単位の休暇や離席の増加
平日の日中に、半日単位の年次有給休暇や数時間の離席が増える場合、転職先の採用面接を受けている可能性があります。年次有給休暇を利用して採用面接を受けることは、何ら違法ではありません。この段階に至った従業員を翻意させることは通常困難であり、使用者としては、当該従業員が退職しても事業を継続できる体制の準備に重点を移す必要があります。
(3) 意見・反論の表明の消失
従前は経営方針や処遇について率直に意見を述べていた従業員が、反論をせず、指示に同調するのみとなる場合があります。経営者はこれを「組織に馴染んだ」と評価しがちですが、実際には、意見を述べても改善されないとの諦めの現れであることが少なくありません。不満の表明は、会社の改善に対する期待が残っていることの裏返しです。真に納得した従業員は、納得した旨を自ら言葉にし、意欲の向上が行動に現れるのが通常であり、こうした事情を伴わずに意見の表明が消えた場合には、退職意思が形成されている可能性を考慮すべきです。
3 兆候を把握した使用者の対応と年次有給休暇の利用目的
(1) 利用目的は労働者の自由である
半日単位の休暇や離席が増えた従業員に対し、休暇の理由を問いただし、転職活動であれば取得を認めないという対応は、許されません。年次有給休暇の権利は、労働基準法39条所定の要件を満たすことにより法律上当然に生じ、労働者が時季を指定したときは、使用者が適法に時季変更権を行使しない限り、その指定により休暇が成立します。使用者の「承認」という観念を容れる余地はありません。最高裁は、「年次休暇の利用目的は労基法の関知しないところであり、休暇をどのように利用するかは、使用者の干渉を許さない労働者の自由である」と判示しています(最高裁昭和48年3月2日第二小法廷判決・民集27巻2号191頁)。
(2) 時季変更権の限界
使用者が行使し得るのは、請求された時季に休暇を与えることが「事業の正常な運営を妨げる場合」に、他の時季に与えることができるという時季変更権に限られます(労働基準法39条5項ただし書)。時季変更権は、事業運営上の支障を理由として時季を変更するものであって、休暇の利用目的を理由として行使することはできません。なお、時間単位の年次有給休暇は、労使協定の締結を要件として、年5日の範囲内で認められる制度です(同条4項)。
(3) 不利益取扱いの禁止
使用者は、年次有給休暇を取得した労働者に対して、賃金の減額その他不利益な取扱いをしないようにしなければなりません(労働基準法附則136条)。転職活動を疑って休暇の取得を妨げ、あるいは取得を理由に評価を引き下げれば、同法39条違反(罰則は同法119条1号)または不利益取扱いとして、使用者の側が法的責任を問われることとなります。兆候を把握した使用者が採るべき対応は、休暇の取得を妨げることではなく、業務の引継ぎと後任の手当て、および後記5の法的リスクの点検です。
4 離職防止のための組織上の対応
(1) 不満の表明に対する応答
従業員から処遇や体制に対する不満が表明されているうちは、離職防止の余地が残されています。指摘に理由があれば是正し、資金その他の事情により是正が困難な場合には、その理由を説明することが重要です。不満を「文句が多い」として放置すれば、不満は諦めに転化し、前記2(3)の兆候に至ります。是正できない場合であっても、理由の説明を受けた従業員は、自らの意見が無視されたものではないと理解することができます。
(2) 中間管理職および第三者による意見の把握
退職する従業員の多くは、退職の本当の理由を使用者に伝えません。とりわけ中小企業においては、経営者自身が評価者であるため、従業員が経営者に対して本音を述べることは期待し難い状況にあります。部長・課長等の中間管理職が従業員の意見を把握し、経営者に伝達する体制の有無が、兆候を把握する時期を左右します。こうした役割を担う管理職がいない場合には、紛争に至る前の段階で、弁護士等の第三者が従業員から事情を聴取する方法も考えられます。
(3) 管理職に対するハラスメントの防止
上記(2)の体制は、中間管理職と経営者との間に信頼関係があることを前提とします。経営者が管理職に対して人格を否定する言動や威圧的な叱責を繰り返せば、管理職自身が離職し、その部下の離職も誘発しかねません。事業主は、職場におけるパワーハラスメントを防止するための雇用管理上の措置を講じる義務を負っており(労働施策総合推進法30条の2第1項)、経営者自身の言動も、その例外ではありません。
5 退職後に顕在化する法的リスクと事前の備え
退職の兆候が現れた従業員を引き留めることは難しく、引留めに成功したとしても、問題が解消するとは限りません。退職の意思が形成された段階で、使用者は、退職に伴って生じ得る紛争を想定しておく必要があります。代表的なものは、次の三つです。
(1) 未払割増賃金の請求
在職中は請求を控えていた従業員が、退職を機に未払割増賃金を請求する事案は多く見られます。賃金請求権の消滅時効期間は5年(労働基準法115条)、当分の間は3年とされており(同法附則143条3項)、過去3年分の請求を一括して受けることがあります。付加金の支払を命じられる可能性もあります(同法114条)。退職した労働者に対する未払賃金については、退職の日の翌日から年14.6%の遅延利息が生じます(賃金の支払の確保等に関する法律6条1項)。
請求を受けた使用者は、各日の労働時間を記録に基づいて確認し、反論することとなります。法的な分析は弁護士が行うことができますが、労働時間を管理しているのは使用者であり、記録を欠く場合には、十分な反論ができません。使用者は労働時間の状況を客観的な方法により把握する義務を負っており(労働安全衛生法66条の8の3)、タイムカード、ICカード、パソコンの使用時間の記録等による始業・終業時刻の確認と記録が原則とされています(厚生労働省「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」)。日常の労働時間管理の精度が、請求を受けた際の対応に要する費用と結果を左右します。
(2) 営業秘密・顧客情報の持出し
退職者が顧客名簿や技術情報を持ち出して転職先で利用した場合、当該情報が不正競争防止法上の営業秘密に該当すれば、差止め・損害賠償を請求することができ(同法3条・4条)、刑事罰の対象ともなり得ます(同法21条)。もっとも、営業秘密に該当するためには、秘密として管理されていること(秘密管理性)、有用性および非公知性の三要件を満たす必要があります(同法2条6項)。施錠された保管場所への保管、電子ファイルへのアクセス制限、秘密である旨の表示といった管理が行われておらず、誰でも持ち出すことができる状態にあった情報については、保護を受けることが困難です。情報の持出しへの対抗手段は、在職中の管理の実態によって決まります。
(3) 引抜き・競業
従業員の転職および同僚への転職の勧誘は、職業選択の自由(憲法22条1項)の下で原則として自由であり、使用者がこれを制限することは容易ではありません。もっとも、その態様が社会的相当性を逸脱する場合には不法行為となります。幹部従業員が部下を一斉に競業会社へ移籍させた事案について、違法な引抜きとして損害賠償責任を認めた裁判例があります(東京地裁平成3年2月25日判決・ラクソン事件)。
退職後の競業については、特約の有無が結論を左右します。退職後の競業避止義務に関する特約等の定めなく退職した従業員が、同種の事業を営み、元の勤務先の取引先から継続的に受注した行為について、最高裁は、元の勤務先に対する不法行為に当たらないと判断しています(最高裁平成22年3月25日第一小法廷判決・民集64巻2号562頁)。他方、競業避止義務を定める特約は、制限の期間・場所的範囲・対象となる職種の範囲、代償措置の有無等に照らして合理的な範囲にとどまる限り、有効と解されています(奈良地裁昭和45年10月23日判決・フォセコ・ジャパン事件)。退職の時点で誓約書の提出を求めても、従業員が応じるとは限らず、提出を強制することもできません。就業規則の規定および入社時・昇進時の誓約書により、在職中に合意を形成しておく必要があります。
点検事項
- ① 従業員の不満・意見を、中間管理職の面談等を通じて把握し、経営者に伝達する体制があるか。是正できない事項について、理由を説明しているか
- ② 年次有給休暇の申請にあたり、理由の記載を取得の条件とする運用や、利用目的による不承認が行われていないか
- ③ 中核となる従業員が退職した場合の業務の引継ぎ・後任の手当てについて、あらかじめ検討しているか
- ④ 労働時間を客観的な記録により把握し、割増賃金を適正に支払っているか。固定残業代制度の要件を満たしているか
- ⑤ 顧客情報・技術情報について、アクセス制限、秘密である旨の表示、持出しの禁止等の管理を実施しているか。退職時に情報の返還・削除を確認しているか
- ⑥ 就業規則に秘密保持・競業避止の規定を置き、入社時・昇進時に誓約書を取得しているか。その内容は、期間・範囲・代償措置の点で合理的なものとなっているか
- ⑦ 経営者・上級管理職の言動について、パワーハラスメント防止の観点からの研修・相談体制を整備しているか
よくあるご質問
Q. 半日単位の年次有給休暇が増えた従業員に、休暇の理由を尋ねてもよいですか。
A. 年次有給休暇の利用目的は労働者の自由であり、使用者がこれに干渉することは許されません(最高裁昭和48年3月2日第二小法廷判決)。理由の申告を取得の条件としたり、申告された理由によって取得を認めなかったりすることは、労働基準法39条に違反します。使用者が行使し得るのは、事業の正常な運営を妨げる場合の時季変更権(同条5項ただし書)に限られ、これは利用目的を理由として行使することはできません。転職活動を疑って理由を問いただすことは、法的な効果がないばかりか、取得の妨害や不利益取扱い(同法附則136条)として問題となるおそれがあるため、避けるべきです。
Q. 退職の兆候がある従業員を、引き留めることはできますか。
A. 期間の定めのない労働契約では、労働者はいつでも解約の申入れをすることができ、申入れから2週間の経過により契約は終了します(民法627条1項)。使用者が退職を拒むことはできず、退職届の受理の拒否や執拗な慰留は、それ自体が紛争の原因となります。処遇や体制に関する対話により翻意する場合もありますが、兆候が明確となった段階では、引留めよりも、業務の引継ぎ、後任の手当て、退職後の紛争への備えに重点を置くことが現実的です。
Q. 退職者から過去の未払残業代を請求された場合、何年分まで遡って支払う必要がありますか。
A. 賃金請求権の消滅時効期間は5年(労働基準法115条)ですが、当分の間は3年とされています(同法附則143条3項)。したがって、現行法の下では過去3年分の請求を受ける可能性があります。退職した労働者に対する未払賃金には、退職の日の翌日から年14.6%の遅延利息が生じ(賃金の支払の確保等に関する法律6条1項)、訴訟においては付加金の支払を命じられることもあります(労働基準法114条)。請求の当否は労働時間の記録に基づいて判断されるため、日常の労働時間管理が重要です。
Q. 退職する従業員に、競業避止の誓約書への署名を求めることはできますか。拒否された場合はどうなりますか。
A. 署名を求めること自体は可能ですが、従業員に署名の義務はなく、強制することはできません。退職後の競業避止義務に関する特約がない場合、退職者による競業行為は、社会通念上自由競争の範囲を逸脱した態様のものでない限り、不法行為には当たらないと解されています(最高裁平成22年3月25日第一小法廷判決)。競業避止義務を定める場合には、就業規則の規定と入社時・昇進時の誓約書により在職中に合意を形成し、その内容を、期間・範囲・代償措置の点で合理的なものとしておく必要があります。
まとめ
従業員の退職は、使用者にとって突然の出来事と受け止められがちですが、職場での交流の減少、半日単位の休暇や離席の増加、意見の表明の消失といった兆候が先行するのが通常です。退職の自由が法律上保障されている以上、使用者にできることは、不満が表明されている段階で応答し、中間管理職等を通じて意見を把握することにより退職意思の形成を防ぐこと、そして、退職後に生じ得る未払割増賃金の請求、情報の持出し、引抜き・競業に備えて、労働時間の記録、秘密情報の管理、就業規則・誓約書を在職中に整えておくことの二つです。兆候を把握した段階で休暇の利用目的を問いただすといった対応は、新たな法的リスクを生じさせるにとどまります。当事務所では、就業規則・誓約書の整備、労働時間管理の点検、従業員へのヒアリング、退職者からの請求や情報の持出し・引抜きへの対応を、顧問契約に基づき継続的に支援しています。
参考資料
- 民法(e-Gov法令検索)/労働基準法(e-Gov法令検索)/賃金の支払の確保等に関する法律(e-Gov法令検索)
- 労働安全衛生法(e-Gov法令検索)/労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律(e-Gov法令検索)
- 不正競争防止法(e-Gov法令検索)/日本国憲法(e-Gov法令検索)
- 最高裁判所 昭和48年3月2日第二小法廷判決(裁判所ウェブサイト)/最高裁判所 平成22年3月25日第一小法廷判決(裁判所ウェブサイト)
- 厚生労働省「令和7年雇用動向調査結果の概要」
- 厚生労働省「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」/厚生労働省「未払賃金が請求できる期間などが延長されています」
- 経済産業省「秘密情報の保護ハンドブック」参考資料5「競業避止義務契約の有効性について」
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本コラムは一般的な情報提供を目的とするものであり、個別の事案に対する法的助言ではありません。統計は厚生労働省「令和7年雇用動向調査結果の概況」(2026年8月公表)によります。実際のご対応にあたっては、最新の法令をご確認のうえ、専門家にご相談ください。
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