厚生労働省の令和6年雇用動向調査によれば、年間の離職率は14.2%であり、常用労働者のおよそ7人に1人が毎年離職しています。中小企業において中核人材の離職は、採用・教育コストの再投下にとどまらず、連鎖退職、取引先との関係断絶、そして退職後の労働紛争という形で経営リスクに直結します。ところが、多くの企業が離職防止策の前提としている「退職理由」は、退職面談で本人が述べた建前にすぎません。本コラムでは、退職理由の建前と本音の乖離を示す統計を出発点に、退職兆候の把握と中間管理職の役割、退職の自由と引留めの法的限界を整理したうえで、退職後に顕在化する未払割増賃金請求・営業秘密の持出し・引抜き・競業という三つの紛争類型への事前対応を解説します。
1 退職理由の建前と本音の乖離――統計が示す構造
(1)退職者の54%は本当の理由を伝えていない
エン・ジャパンが2024年に実施した「本当の退職理由」調査(有効回答5,168名)によれば、退職者の54%が「本当の退職理由を会社に伝えなかった」と回答しています。伝えなかった理由は、「話しても理解してもらえないと思ったから」(46%)、「円満退社したかったから」(45%)、「言う必要がないと思ったから」(33%)の順でした。会社に伝えた退職理由の1位が「別の職種にチャレンジしたい」であったのに対し、本当の退職理由の1位は「人間関係」であり、建前と本音は質的に異なっています。
(2)転職理由の上位項目
転職サービスdodaの「転職理由ランキング2025年版」(パーソルキャリア)では、「給与が低い・昇給が見込めない」が5年連続の1位(36.6%)、「労働時間に不満」が2位(26.3%、20代では1位)、「個人の成果で評価されない」が前回18位から3位(22.8%)に上昇しています。2024年版では「人間関係が悪い」「社内の雰囲気が悪い」が2位・3位を占めていました。これらを総合すると、労働時間・会社の将来性・評価処遇・給与・人間関係が本音の退職理由の主要因であり、このうち評価と人間関係は数値化されにくく、かつ本人が最も口にしにくい項目です。
(3)建前に基づく離職防止策の限界
「キャリア志向による退職」という建前を前提に昇給や役職付与で対応しても、本音が上司との関係や評価の不透明性にあれば、退職の連鎖は止まりません。離職防止策の設計は、退職面談の記録ではなく、在職中に把握した本音に基づく必要があります。
2 退職の自由と引留めの法的限界
期間の定めのない労働契約において、労働者はいつでも解約を申し入れることができ、申入れの日から2週間を経過することによって雇用は終了します(民法627条1項)。就業規則に「退職は1か月前までに申し出ること」と定めている企業は多く、これは業務引継ぎへの協力を求める根拠にはなりますが、2週間経過後の就労を強制する根拠にはなりません。退職届の受理を拒否する、後任が決まるまで認めないと告げる、損害賠償を示唆して慰留するといった対応は、退職の自由を侵害する不法行為やハラスメントとして、かえって企業側の責任を生じさせるおそれがあります。有期労働契約についても、やむを得ない事由があれば直ちに解除でき(民法628条)、実務上、退職の意思が確定した従業員を法的手段で引き留めることはできないと理解すべきです。
このことは、離職防止の主戦場が「退職を申し出られた後」ではなく「退職意思が形成される前」にあることを意味します。
3 退職兆候の把握と離職防止の組織設計
(1)退職意思が形成された従業員の典型的兆候
経営者側・従業員側の双方から相談を受ける経験上、退職を決意した従業員の行動には共通の兆候があります。①休憩中の雑談など職場の人間関係への関与を減らす、②会議で発言せず傍観者となる、③将来の業務やキャリアについて語らなくなる、④与えられた業務は遂行するが、改善提案や後輩の指導など契約上の義務を超える貢献をやめる、⑤反論や不満を述べなくなる、という順序です。いずれも表面上は問題行動ではなく、労働契約上の債務不履行にも当たらないため、使用者は「落ち着いた」と誤認しがちです。特に⑤は、不満の表明が「会社への期待」の裏返しである以上、不満が消えた時点で説得を諦めた可能性が高いことを示しています。
(2)中間管理職を介した本音の把握
前記調査のとおり、従業員の半数以上は本音を会社に伝えません。とりわけ中小企業では代表者が評価権限を直接保持しているため、代表者との面談で本音が語られることは期待できません。部長・課長級の管理職が1on1や日常の会話を通じて不満を吸い上げ、経営層に伝達する体制の有無が、兆候に気づく時期を左右します。逆に、代表者が中間管理職を介さずに指揮命令や叱責を行う組織では、管理職とその部下が同時期に離職する連鎖退職が生じやすく、リクルート「就職白書2020」による中途採用1人当たり平均コスト103.3万円(2019年度)を前提とすれば、採用費のみで数百万円規模の損失となります。
(3)評価・処遇の透明化
「個人の成果で評価されない」が転職理由の上位に急浮上したことは、評価基準の文書化と定期的なフィードバックの重要性を示しています。賃金水準を直ちに引き上げられない場合でも、評価基準と昇給の要件を明示し、評価結果の理由を説明することが、「話しても理解してもらえない」という諦めを防ぐ実効的な手段となります。
4 退職後に顕在化する法的リスクと事前対応
(1)未払割増賃金の請求
在職中は請求を控えていた従業員が、退職を機に未払割増賃金を請求する事案は極めて多く見られます。賃金請求権の消滅時効期間は、2020年4月1日以降に支払期日が到来した賃金について5年(労働基準法115条)、当分の間は3年(同法附則143条3項)であり、付加金(同法114条)の請求期間も同様です。退職後は、賃金の支払の確保等に関する法律6条により、退職日の翌日から支払日まで年14.6%の遅延利息が付され、在職中の法定利率年3%を大幅に上回ります。対応としては、①労働時間の客観的記録(タイムカード・PCログ等)の整備、②固定残業代制度の要件(明確区分性・対価性)の点検、③退職時の清算と合意書の作成が基本です。
(2)営業秘密の持出し
IPA「企業における営業秘密管理に関する実態調査2020」では、営業秘密の漏えいルートとして「中途退職者」が36.3%で最多とされています。顧客情報・技術情報が不正競争防止法2条6項の営業秘密(秘密管理性・有用性・非公知性)に該当すれば、差止め・損害賠償の請求(同法3条・4条)が可能であり、不正の利益を得る目的等による取得・使用・開示には10年以下の拘禁刑もしくは2,000万円以下の罰金またはその併科という刑事罰が定められています(同法21条1項)。もっとも、秘密管理性は、アクセス制限・秘密表示・誓約書等により従業員が秘密として認識し得る管理が行われていたか否かで判断されます。管理実態のない情報は、持ち出されても法的保護を受けられません。
(3)引抜き・競業
退職者による転職や同僚の勧誘は、職業選択の自由(憲法22条1項)の下で原則として自由です。しかし、その態様が社会的相当性を逸脱する場合には不法行為となります。東京地裁平成3年2月25日判決(ラクソン事件)は、幹部従業員が慰安旅行を装って部下を連れ出し、一斉に競業会社へ移籍させた事案について、違法な引抜きとして損害賠償責任を認めました。退職後の競業避止義務については、奈良地裁昭和45年10月23日判決(フォセコ・ジャパン事件)以来、制限の期間・地域・職種の範囲、使用者の正当な利益、代償措置の有無等を総合して合理的な範囲であれば有効とする判断枠組みが定着しており、就業規則および入社時・退職時の誓約書において、対象となる情報・期間・範囲を限定した条項を設けておくことが、退職後の交渉・訴訟における前提となります。
企業が点検すべき事項
- ① 退職面談の記録とは別に、中間管理職の1on1等を通じて在職中の不満・本音を把握し、経営層に伝達する体制があるか
- ② 評価基準・昇給要件が文書化され、評価結果の理由が本人にフィードバックされているか
- ③ 就業規則の退職予告期間の定めが、民法627条を前提とした引継ぎ協力規定として運用されており、退職届の受理拒否や執拗な慰留が行われていないか
- ④ 労働時間の客観的記録が3年分保存され、固定残業代制度の要件が満たされ、退職時に賃金の清算と合意書の作成が行われているか
- ⑤ 顧客情報・技術情報についてアクセス制限・秘密表示・持出し禁止等の秘密管理が実施され、退職時にデータ返還・削除の確認が行われているか
- ⑥ 入社時・退職時に秘密保持・競業避止・引抜き禁止の誓約書を取得し、その内容が期間・範囲・代償措置の点で合理的なものとなっているか
退職は、引留めの成否で終わる問題ではありません。退職の自由が法律上保障されている以上、企業にできることは、退職意思が形成される前に本音を把握し得る組織を整えること、そして、退職後に生じ得る紛争に備えて記録と合意を在職中に整えておくことの二つです。いずれも「退職を申し出られてから」では間に合わない準備であり、日常的な労務管理の中に組み込んでおくことが最も確実な予防法務です。
よくあるご質問
Q. 就業規則に「退職は1か月前までに申し出ること」と定めている場合、2週間で退職を申し出た従業員を引き留めることはできますか。
A. 期間の定めのない労働契約においては、労働者はいつでも解約を申し入れることができ、申入れから2週間の経過により契約は終了します(民法627条1項)。就業規則の予告期間は業務の引継ぎへの協力を求める根拠にはなりますが、2週間の経過後も就労を強制する根拠にはならず、退職届の受理拒否や執拗な慰留は、それ自体が不法行為・ハラスメントとして問題化するおそれがあります。引留めは法的手段によるのではなく、退職意思が形成される前の労務管理によって行うべきものです。
Q. 退職者から未払割増賃金を請求された場合、何年分まで遡って請求され得ますか。
A. 2020年4月1日以降に支払期日が到来した賃金請求権の消滅時効期間は5年(労働基準法115条)ですが、当分の間は3年とされています(同法附則143条3項)。付加金の請求期間も同様です。退職後は、賃金の支払の確保等に関する法律6条により、退職日の翌日から支払日まで年14.6%の遅延利息が付され、在職中の法定利率(年3%)を大きく上回ります。労働時間の客観的記録を欠く場合には使用者側が不利な認定を受けやすくなります。
Q. 退職者が顧客名簿を持ち出して転職先で利用している場合、どのような法的対応が可能ですか。
A. 当該情報が不正競争防止法2条6項の営業秘密(秘密管理性・有用性・非公知性)に該当すれば、差止請求・損害賠償請求が可能であり、不正の利益を得る目的等での取得・使用・開示には10年以下の拘禁刑もしくは2,000万円以下の罰金またはその併科という刑事罰が定められています(同法21条1項)。もっとも、秘密管理性は在職中の管理実態で判断されるため、アクセス制限や秘密表示等の管理がなかった情報は保護されません。持出し後の対応の可否は、持出し前の管理体制で決まります。
参考:e-Gov法令検索「民法」(627条・628条)/e-Gov法令検索「労働基準法」(114条・115条・附則143条)/e-Gov法令検索「賃金の支払の確保等に関する法律」(6条)/e-Gov法令検索「不正競争防止法」(2条6項・3条・4条・21条)/厚生労働省「令和6年雇用動向調査結果の概要」/厚生労働省「未払賃金が請求できる期間などが延長されています」/IPA「企業における営業秘密管理に関する実態調査2020」報告書
本コラムは一般的な情報提供を目的とするものであり、個別の事案に対する法的助言ではありません。法令・統計は厚生労働省・e-Gov法令検索・IPAの公表資料および各社の公開調査(2026年9月時点)に基づきます。実際のご対応にあたっては、最新の法令をご確認のうえ、専門家にご相談ください。
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