「転職は35歳まで」という通念は、統計上すでに過去のものとなっています。株式会社リクルートが自社の転職支援サービスの転職者データを分析した結果によれば、40〜59歳のミドル世代の転職者数は2024年12月までの10年間で約6倍に増加し、とりわけ50代の伸びが顕著です。総務省統計局「労働力調査(詳細集計)」の2025年平均では、現在の仕事を辞めて他の仕事に変わりたい、または他の仕事もしたいと希望する「転職等希望者」は1023万人(前年比23万人増)にのぼり、同年の就業者数6828万人(基本集計)との対比では就業者の約15%、およそ7人に1人に相当します。転職者数は330万人です。さらに厚生労働省「令和6年雇用動向調査」によれば、転職入職者のうち前職に比べ賃金が「増加」した者の割合は40.5%、「1割以上の増加」は29.4%と前年より3.8ポイント上昇しており、転職が賃金低下を伴うという従来の前提も崩れつつあります。
企業側の採用行動も変化しています。パーソルキャリア株式会社が2025年8〜9月に中途採用担当者1,329人を対象に実施した調査(2024年度にミドルシニアを採用した企業の担当者505人の回答に基づく)では、ミドルシニア採用の理由の1位は「即戦力となる人材が欲しい」(38.0%)、2位「人員不足を解消したい」(36.8%)、3位「若手人材の確保が難しい」(36.6%)であり、2025年度に採用が増える見込みと回答した企業は40代後半で46.7%、50代前半で40.4%、50代後半で42.1%に達しています。すなわち、自社で長年の経験を蓄積した中核社員は、他社にとって最も需要の高い即戦力であり、転職市場から恒常的に声がかかる前提で人事制度を設計しなければならない状況にあります。本稿では、中核人材の退職に対して会社が法的に取り得る手段の限界を確認したうえで、流出防止のための評価・賃金制度の再設計と、その実施に伴う就業規則の不利益変更の要件を整理します。
1 退職の自由と引留めの法的限界
(1) 民法627条1項による解約申入れ
期間の定めのない雇用契約においては、各当事者はいつでも解約の申入れをすることができ、雇用は解約の申入れの日から2週間を経過することによって終了します(民法627条1項)。労働者からの解約申入れについては、就業規則に1か月前等の予告期間を定めていても、民法627条1項の2週間を超える拘束は認められないと解するのが一般的な理解です。会社の承諾は要件ではなく、後任者の確保や引継ぎの完了を退職の条件とすることもできません。退職届を受理しない、離職票や退職証明書(労働基準法22条)を交付しない、といった対応は引留めの手段とならないばかりか、それ自体が法令違反や紛争の原因となります。
(2) 「退職の申出を受けてから」では遅い理由
退職の申出があった時点で会社に残されているのは、処遇改善の提示を含む説得のみです。転職を検討する労働者の多くは、退職届の提出に先立ち数か月にわたって転職活動を進めており、内定を得た段階で申し出るのが通常です。この段階での慰留の成功率は高くなく、仮に慰留に成功しても条件の後出しは他の社員との公平性の問題を生じさせます。中核人材の流出防止は、退職の申出を受けてからの対応ではなく、日常の評価・処遇と面談の設計によって実現すべき課題です。
2 中核人材の流出に伴う損失と退職後の法的手段の限界
(1) 流出に伴う4類型の損失
中核社員の退職に伴う損失は、①属人化した業務ノウハウの喪失、②取引先との関係の移転(顧客が会社ではなく担当者に帰属している場合の売上減少)、③同等人材の採用・育成コスト(採用市場での年収競争と戦力化までの期間)、④若手社員への連鎖退職(メンターの離脱による動揺)の4類型に整理できます。製造業において特殊加工を担う技能者1名の同業他社への転職により、当該加工を要する受注が不可能となり主要取引先との契約見直しに至った例のように、損失は人件費1人分にとどまりません。
(2) 退職後の競業避止義務契約の有効性
退職後の労働者には職業選択の自由(憲法22条1項)があり、在職中の誠実義務に基づく競業避止義務は退職により消滅します。退職後の競業を制限するには、就業規則の規定または個別の誓約書等による合意が必要であり、その合意も無制限に有効となるものではありません。経済産業省「秘密情報の保護ハンドブック」参考資料5「競業避止義務契約の有効性について」が裁判例を整理するところによれば、裁判所は、①守るべき企業の利益があるかどうかを前提として、競業避止義務契約の内容が目的に照らして合理的な範囲にとどまっているかという観点から、②従業員の地位が競業避止義務を課す必要性が認められる立場にあるか、③地域的な限定があるか、④競業避止義務の存続期間および⑤禁止される競業行為の範囲について必要な制限が掛けられているか、⑥代償措置が講じられているか、といった項目について判断しています。企業側に守るべき利益があることを前提に、職業選択の自由を過度に制約しないよう配慮し、必要最小限度の制約を課すものであれば有効性が認められ得る一方、期間・地域・対象行為の限定を欠き代償措置もない包括的な競業禁止条項は無効とされるリスクが高いといえます。
(3) 営業秘密の秘密管理性
顧客名簿・価格情報・技術情報等の持出しに対しては、不正競争防止法による差止め・損害賠償・刑事罰の可能性がありますが、保護の対象となるのは「営業秘密」、すなわち秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないもの(同法2条6項)に限られます。秘密管理性・有用性・非公知性の3要件のうち、実務上最も問題となるのは秘密管理性であり、会社が当該情報を秘密として管理する意思を、アクセス制限、秘密表示、持出し制限等の措置により従業員に明確に示していたことが必要です。共有サーバーに誰でも閲覧・複製できる状態で置かれていた顧客名簿は、持ち出されても営業秘密としての保護を受けられないおそれがあります。
(4) 従業員引抜きの違法性
退職した管理職が部下を勧誘して同業他社や独立先に移籍させる引抜きについても、労働者の転職の自由を前提として、単なる転職の勧誘は原則として適法であり、裁判例は、引抜きの態様が社会的相当性を逸脱し、自由競争の範囲を著しく逸脱する計画的・背信的なものである場合に限って不法行為責任を認める傾向にあります(英会話教材販売会社の営業部長が部下約20名を引き連れて競合会社に移籍した事案について違法な引抜きと認めた東京地裁平成3年2月25日判決など)。損害の立証も容易ではなく、退職後の法的手段によって流出の損失を回復できる場面は限定的です。
3 流出防止のための評価・賃金制度の再設計
(1) 年齢・年次による一律処遇の見直し
ミドル世代の転職動機の中核には「現在の会社ではこれ以上処遇が上がらない」という見通しがあり、その典型が役職定年制度です。一定年齢(55歳等)への到達を理由に一律に役職を解き、賃金を2〜3割減額する制度は、本人の役割・成果と無関係に処遇を引き下げるため、即戦力として迎え入れる企業が存在する現在の労働市場においては、優秀な人材から順に流出を招く要因となります。前掲パーソルキャリアの調査においても、企業が「1年以内に見直した」人事制度の1位は「役職定年」(42.4%)でした。役職定年制度自体の存置を検討する場合であっても、役職を離れた後の役割(技能伝承・後進育成・専門職)と処遇を明確に定義し、一律減額ではなく役割に応じた処遇とする設計が求められます。
(2) 行動評価の明文化
中核社員の貢献は、売上等の数値目標の達成度のみでは把握できません。後進の育成、技能・ノウハウの伝承、クレーム・トラブル対応、業務プロセスの構築、取引先との長期的信頼関係の維持といった「数値に表れない貢献」は、当該社員の退職によって初めて損失として顕在化します。これらを人事評価規程上の評価項目(行動評価・プロセス評価)として明文化し、賞与・昇給・昇格に反映させる仕組みは、会社が貢献を認識しているという実感を与え、離職防止に直結します。評価項目の明文化は、後述する不利益変更の合理性判断においても、変更の必要性・内容の相当性を裏付ける資料となります。
(3) 業績連動賞与と基本給の二段構え
会社業績および個人成果に連動する賞与は短期的な貢献に報いる手段として有効ですが、賞与のみに依存した処遇は、業績低迷期に手取りが減少した時点で転職を誘発します。長期的に定着を図るべき中核人材については、基本給の引上げ(ベース上乗せ)により安定的な処遇の基盤を構築し、短期的貢献は賞与で、長期的貢献は基本給で報いる二段構えとすることが合理的です。基本給の引上げは、時間外労働の割増賃金の算定基礎(労働基準法37条)や退職金の算定基礎にも影響するため、規程全体の整合性を確認したうえで実施する必要があります。
4 制度変更に伴う就業規則の不利益変更
(1) 労働契約法9条・10条の枠組み
評価・賃金制度の再設計は、対象社員の処遇を引き上げる一方で、その原資を確保するために他の社員の手当を廃止し、または賞与の配分率を引き下げるなど、一部の社員にとって不利益となる変更を伴うことが少なくありません。使用者は、労働者と合意することなく、就業規則を変更することにより、労働者の不利益に労働契約の内容である労働条件を変更することはできず(労働契約法9条)、例外として、変更後の就業規則を労働者に周知させ、かつ、就業規則の変更が、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情に照らして合理的なものであるときに限り、変更後の就業規則の定めが労働契約の内容となります(同法10条)。
(2) 第四銀行事件の判断枠組み
労働契約法10条の合理性判断の枠組みは、第四銀行事件(最高裁平成9年2月28日第二小法廷判決)を含む判例法理を条文化したものです。同事件は、定年を55歳から60歳に延長する代わりに55歳以降の給与等を減額する就業規則の変更の効力が争われた事案であり、最高裁は、就業規則の変更によって労働者が被る不利益の程度、使用者側の変更の必要性の内容・程度、変更後の就業規則の内容自体の相当性、代償措置その他関連する他の労働条件の改善状況、労働組合等との交渉の経緯、他の労働組合または他の従業員の対応、同種事項に関する我が国社会における一般的状況等を総合考慮して合理性を判断すべきものとし、とくに賃金・退職金など労働者にとって重要な権利・労働条件に関し実質的な不利益を及ぼす変更については、高度の必要性に基づいた合理的な内容のものであることを要するとしています。
(3) 実務上の手順
制度変更にあたっては、第一に、変更の必要性(中核人材の流出リスク、市場水準との乖離)を客観的資料により整理し、第二に、不利益を受ける社員の範囲と不利益の程度を数値で把握したうえで、代償措置(他の手当の新設・賞与の配分見直し)および経過措置(段階的減額・一定期間の補填)を設計し、第三に、労働組合または労働者の過半数代表からの意見聴取(労働基準法90条)に加え、対象社員への個別説明と可能な限りの個別同意の取得を行い、第四に、変更後の就業規則を周知(同法106条)し所轄労働基準監督署へ届け出る(同法89条)という手順を踏むことが必要です。合意による変更(労働契約法8条・9条)を基本とし、就業規則による一方的変更(同法10条)は合意が得られない社員に対する補充的な根拠と位置づけることが、紛争予防の観点から適切です。
5 実務対応 ― 誓約書の取得時期とキーパーソン面談
退職後の競業避止・秘密保持に関する誓約書は、入社時・昇進時(機密性の高い情報に接する地位への就任時)・退職時の3つの時点で取得することが望ましく、それぞれの時点で対象情報・期間・地域・代償措置を具体的に定めることにより有効性を高めることができます。営業秘密については、秘密管理規程の整備、アクセス権限の設定、秘密表示、退職時の返還・消去の確認を通じて秘密管理性を確保します。
制度の再設計には相応の期間を要しますが、直ちに着手できる対応として、退職により最も影響の大きい中核社員を特定し、経営者自身が1対1の面談を行うことが挙げられます。面談においては、現在の処遇に対する納得度と今後担いたい役割の2点を確認し、会社として当該社員に期待する役割と処遇の方向性を直接伝えることが、最も費用対効果の高い流出防止策となります。転職を検討する社員は退職申出の数か月前から兆候を示すことが通常であり、形式化した評価面談ではその兆候を把握できません。
点検事項
- ① 退職により事業上の影響が最も大きい中核社員を特定し、経営者または役員による1対1の面談を定期的に実施しているか
- ② 役職定年制度等、年齢・年次を基準とする一律の処遇引下げが存在する場合、役職離脱後の役割と処遇が役割に応じて設計されているか
- ③ 人事評価規程に、後進育成・技能伝承・トラブル対応等の行動評価項目が明文化され、賞与・昇給・昇格に反映される仕組みとなっているか
- ④ 中核人材の処遇について、業績連動賞与と基本給引上げの組合せが設計され、割増賃金・退職金の算定基礎への影響を確認しているか
- ⑤ 制度変更により不利益を受ける社員の範囲・程度を把握し、代償措置・経過措置を設計したうえで個別説明と同意取得を行っているか
- ⑥ 就業規則の変更について、過半数代表からの意見聴取、周知、労働基準監督署への届出の手続を履践しているか
- ⑦ 競業避止・秘密保持の誓約書を入社時・昇進時・退職時に取得し、対象・期間・地域・代償措置を具体的に定めているか
- ⑧ 顧客名簿・技術情報等について、秘密管理規程・アクセス制限・秘密表示により秘密管理性を確保しているか
- ⑨ 退職申出に対して、退職届の不受理や離職票の不交付等の不適切な引留めが行われない体制となっているか
よくあるご質問
Q. 中核社員から退職の申出があった場合、会社は後任が決まるまで退職を拒むことができますか。
A. できません。期間の定めのない雇用契約においては、各当事者はいつでも解約の申入れをすることができ、雇用は解約の申入れの日から2週間を経過することによって終了します(民法627条1項)。就業規則に「退職は1か月前に申し出ること」等の定めがあっても、労働者からの解約申入れについては民法627条1項の2週間が優先すると解するのが一般的であり、退職届の不受理や離職票の不交付といった対応は法的な引留め手段になりません。会社にできるのは処遇の見直しを含む説得のみであり、退職の申出を受けた時点で会社の選択肢は事実上限られます。
Q. 退職後に同業他社へ転職することを禁止する誓約書は有効ですか。
A. 一律には有効とされません。退職後の労働者には職業選択の自由(憲法22条1項)があり、裁判例は、①守るべき企業の利益があるか、②従業員の地位、③地域的な限定、④競業避止義務の存続期間、⑤禁止される競業行為の範囲、⑥代償措置の有無といった要素を検討し、企業の利益を保全するために必要最小限度の制約にとどまる場合に限り有効性を認めています(経済産業省「秘密情報の保護ハンドブック」参考資料5の整理)。期間・地域・対象行為の限定がなく、代償措置もない包括的な競業禁止条項は、公序良俗に反し無効と判断されるリスクが高いといえます。
Q. 退職した社員が顧客名簿や技術情報を持ち出した場合、不正競争防止法で保護されますか。
A. 当該情報が「営業秘密」に該当する場合に限り保護されます。営業秘密とは、秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないものをいい(不正競争防止法2条6項)、秘密管理性・有用性・非公知性の3要件を満たす必要があります。とくに秘密管理性は、会社が当該情報を秘密として管理する意思を、アクセス制限や秘密表示等の措置により従業員に対して明確に示していたかどうかで判断されるため、社内で誰でも閲覧できる状態に置かれていた顧客名簿等は、持ち出されても営業秘密としての保護を受けられないおそれがあります。
Q. ベテラン社員の処遇を引き上げる原資として、他の社員の手当を廃止することはできますか。
A. 労働条件の不利益変更に該当するため、原則として対象労働者の合意が必要です(労働契約法9条)。合意によらず就業規則の変更で行う場合には、変更後の就業規則を周知し、かつ、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の事情に照らして合理的なものであることが必要です(同法10条)。この判断枠組みは第四銀行事件(最高裁平成9年2月28日第二小法廷判決)等の判例法理を条文化したものであり、賃金という重要な労働条件の不利益変更については高度の必要性に基づく合理性が求められます。代償措置・経過措置の設定、対象労働者への丁寧な説明と個別同意の取得が実務上不可欠です。
参考資料
- 株式会社リクルート「ミドル世代の転職は10年で約6倍へ 経験の棚卸しは10年以上さかのぼることが重要」(2025年3月25日)
- 総務省統計局「労働力調査(詳細集計)2025年(令和7年)平均結果の要約」(PDF)
- 総務省統計局「労働力調査(基本集計)2025年(令和7年)平均結果の要約」(PDF)
- 厚生労働省「令和6年雇用動向調査結果の概要」
- パーソルキャリア株式会社「転職サービス『doda』、企業のミドルシニア層の採用に関する調査レポート(採用実態・人事制度編)」(2025年12月2日)
- 経済産業省「秘密情報の保護ハンドブック」参考資料5「競業避止義務契約の有効性について」(PDF)
- 厚生労働省「労働契約法に関する参考となる主な裁判例」(第四銀行事件ほか・PDF)
- 民法(e-Gov法令検索)/労働契約法(e-Gov法令検索)
- 不正競争防止法(e-Gov法令検索)/日本国憲法(e-Gov法令検索)/労働基準法(e-Gov法令検索)
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