店舗やオフィスの賃貸借契約は、出店・移転のたびに締結される身近な契約である一方、契約期間が長期にわたり、内装投資・保証金・原状回復費用を含めると数百万円から数千万円単位の経済的負担を伴います。東京都が公表した令和6年度の統計によれば、都の不動産相談窓口に寄せられた賃貸借に関する電話相談は16,206件にのぼり、相談内容の上位は「敷金(原状回復)」3,323件、「重要事項説明・契約内容」2,704件でした(住宅を含む賃貸借全般の件数)。
事業用の賃貸借では、借主は個人であっても「事業として又は事業のために契約の当事者となる場合」に該当し、消費者契約法上の消費者には当たりません(同法2条1項)。住宅賃貸借で形成されてきた借主保護の考え方がそのまま妥当しない場面が多く、契約条項の文言が紛争の帰趨を決することになります。本稿では、①使用目的と営業許可、②原状回復と保証金、③契約類型・期間・中途解約・保証、④暴力団排除条例への対応の各論点について、裁判例を素材に契約前に審査すべき事項を整理します。
1 使用目的と営業許可の調査
(1)東京高裁令和3年9月15日判決
飲食店の開業を予定する借主が、マンション1階の居抜き店舗を月額18万円余りで賃借したところ、内装工事に際して消防署から排気ダクトの交換や防火設備の設置を求められ、これに対応すると厨房の天井高を確保できないことが判明した事案です。借主は契約を解除し、貸主および仲介業者に対し、内装費用・逸失利益等として合計509万円余りの損害賠償を請求しましたが、裁判所は、賃借物件において希望する営業が可能かどうかは、法令上の制限を含め、原則として賃借人自身が調査・確認すべき事項であるとして、請求をいずれも棄却しました。重要事項説明において、用途により法令上の制限を受ける場合があり具体的な利用計画については確認が必要である旨の説明がされていたことも考慮されています。
(2)営業制限の三層構造
営業の可否は、第一に賃貸借契約上の使用目的・禁止事項(業態、酒類提供、営業時間、看板、臭気・排気等)、第二に区分所有建物の管理規約やビルの館内規則、第三に法令による制限によって画されます。法令面では、深夜(午前0時から午前6時まで)に酒類を提供して営む飲食店営業は、営業開始の10日前までに公安委員会への届出を要し(風営法33条1項)、都道府県の条例により住居系の用途地域等での営業が制限されています。また、建物の用途を飲食店等の特殊建築物に変更する場合、その用途に供する部分の床面積が200平方メートルを超えるときは確認申請が必要であり(建築基準法87条1項・6条1項1号)、確認を要しない規模であっても建築基準法・消防法令への適合は求められます。
(3)重要事項説明の限界
宅地建物取引業法35条に基づく重要事項説明には、建物の貸借の場合にも「用途その他の利用の制限に関する事項」が含まれますが、都市計画法・建築基準法に基づく用途制限は、建物の貸借については説明すべき法令上の制限の対象とされていません(同法施行令3条3項参照)。重要事項説明に記載がないことは営業が可能であることを意味せず、また貸主との直接契約では重要事項説明自体が行われません。実務上は、契約締結前に図面を持参して保健所・消防署・警察署へ事前相談を行い、使用目的を「酒類の提供を含む飲食店(営業時間○時まで)」のように具体的に特定し、仲介業者による説明内容を書面または電子メールで記録化しておくことが必要です。
2 原状回復と保証金
(1)民法621条と通常損耗補修特約
民法621条は、賃借人の原状回復義務の対象から、通常の使用・収益によって生じた損耗および経年変化を除外しています。もっとも同条は任意規定であり、特約により通常損耗の補修を賃借人の負担とすることは可能です。最高裁平成17年12月16日判決は、通常損耗についての原状回復義務を賃借人に負わせるには、賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか、口頭による説明により賃借人がその旨を明確に認識し合意の内容としたと認められるなど、その旨の特約が明確に合意されていることが必要であるとしました。国土交通省「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」も住宅を対象とするものです。
(2)事業用物件に関する裁判例
東京高裁平成12年12月27日判決は、新築オフィスビルを保証金1,200万円で賃借し約6年後に退去した事案において、「契約締結時の原状に回復しなければならない」旨の条項に基づき、通常損耗を含めて賃借当時の状態に回復する義務を認め、原状回復費用約592万円を賃借人の負担としました。未払賃料等と併せると保証金では足りず、賃借人は追加で295万円余りを支払う結果となっています。また東京地裁令和4年6月24日判決は、約78平方メートルの事務所について、小規模事務所は住宅と同視すべきであり特約は消費者契約法・ガイドラインに反し無効であるとの賃借人の主張を退け、床は新品のタイルカーペット、壁は新規塗装の状態に、契約期間の長短や損耗の程度にかかわらず回復する旨の具体的な特約と代表者の署名押印を根拠に、特約を有効としました。
(3)審査のポイント
原状回復条項と特約欄については、回復の水準(スケルトン渡しか、入居時の内装か)、居抜き物件における前賃借人の造作の撤去負担、工事業者の指定の有無と見積りの相当性、保証金の償却(敷引)の額と時期を確認し、必要に応じて修正を求めるべきです。重要事項説明書では「敷金など契約終了時に精算する金銭」の欄を照合し、入居時の状態は写真・動画で記録して貸主と共有しておくことが、退去時の紛争予防として有効です。
3 契約類型・期間・中途解約・保証
(1)普通建物賃貸借と定期建物賃貸借
普通建物賃貸借では、貸主による更新拒絶・解約申入れには正当事由が必要であり(借地借家法28条)、正当事由がなければ契約は法定更新されます。これに対し定期建物賃貸借(同法38条)は、契約の更新がなく期間満了により終了します。その成立には、書面(電磁的記録を含む)による契約に加え、貸主があらかじめ、契約書とは別個の書面を交付して、更新がなく期間満了により終了する旨を説明することが必要であり、この説明を欠くときは更新がない旨の定めは無効となります(同法38条3項・5項)。
(2)東京地裁令和2年12月24日判決
平成10年から20年以上同一建物で海鮮丼店を営んできた会社が、途中で定期建物賃貸借に切り替えて1年ごとに再契約を重ねていたところ、建物の譲受人である新賃貸人が再契約に応じなかった事案です。裁判所は、事前説明書面の交付と賃借人の受領書・承諾書の存在を認定して期間満了による終了を認め、明渡しとともに、賃料月額28万円の倍額にあたる月額56万円の割合による使用損害金の支払を、連帯保証人であった実質的経営者に対しても命じました。営業の継続年数は、定期建物賃貸借の終了を妨げる事情とはなりません。
(3)中途解約と違約金
期間の定めのある建物賃貸借では、中途解約権を留保する特約がない限り、賃借人は原則として期間中に解約できません。特約がある場合も、予告期間や違約金の定めが置かれるのが通常です。東京地裁平成8年8月22日判決は、4年の契約を約10か月で解約した賃借人に、残存期間約3年2か月分の賃料・共益費相当額の違約金を課す条項について、1年分の限度で有効とし、これを超える部分を公序良俗に反し無効としました。内装投資の回収期間と契約期間・中途解約条件の整合性は、出店判断の前提として検討すべき事項です。
(4)賃料改定と保証
賃料増減額請求権(借地借家法32条)との関係で、賃料改定条項や不増額特約の有無も確認が必要です(定期建物賃貸借では同条の適用を排除する特約が可能です。同法38条9項)。また、賃貸借契約に基づく債務の保証は根保証にあたるため、個人が保証人となる場合は極度額を書面等で定めなければ効力を生じず(民法465条の2)、事業のために負担する債務の保証では、主債務者による保証人への情報提供義務(同法465条の10)にも留意が必要です。
4 暴力団排除条例への対応
警察庁「令和7年における組織犯罪の情勢」によれば、令和7年中の暴力団対策法に基づく中止命令の発出件数は754件で、うちみかじめ料要求行為(同法9条4号)に対するものは55件でした。東京都暴力団排除条例は、都内の繁華街に暴力団排除特別強化地域を定め、同地域内の特定営業者が暴力団員から用心棒の役務の提供を受け、またはその対償として、あるいは営業を営むことを容認されることの対償として利益を供与することを禁止し、違反には1年以下の拘禁刑または50万円以下の罰金を科しています(自首による減免規定あり)。事業用賃貸借契約には反社会的勢力排除条項が置かれるのが通例であり、利益供与が契約解除事由となるおそれもあります。要求を受けた場合は、初回から応じず、速やかに警察、暴力追放運動推進センター、弁護士に相談すべきです。なお、条例の内容は都道府県により異なります。
企業が点検すべき事項
- 契約書の使用目的が予定する業態(酒類提供・営業時間を含む)を具体的に特定しているか。禁止事項・管理規約・館内規則と抵触しないか。
- 契約締結前に、保健所・消防署・警察署への事前相談、用途変更の要否の確認を行ったか。仲介業者の説明を記録化しているか。
- 契約が普通建物賃貸借か定期建物賃貸借か。定期建物賃貸借の場合、事前説明書面の交付と説明を受けたか、再契約の見込みを確認したか。
- 契約期間と内装投資の回収期間が整合しているか。中途解約の可否・予告期間・違約金の額は相当か。
- 原状回復の水準(スケルトン・入居時内装)、通常損耗補修特約の範囲、居抜き造作の撤去負担が明確か。
- 原状回復工事の指定業者の有無、見積りの取得方法が定められているか。
- 保証金・敷金の償却(敷引)の額と時期、返還時期・精算方法を確認したか。
- 賃料改定条項・不増額特約・共益費の改定方法を確認したか。
- 個人保証人の極度額が書面で定められ、情報提供義務の手続を履践しているか。
- 入居時の現況を写真・動画で記録し、貸主と共有したか。契約書・重要事項説明書の案を事前に入手し、検討期間を確保しているか。
よくあるご質問
Q. 仲介業者から「この物件で飲食店は問題ない」と言われて契約しましたが、営業許可が下りませんでした。貸主や仲介業者に責任を問えますか。
A. 事情によりますが、容易ではありません。東京高裁令和3年9月15日判決は、居抜き店舗で希望する飲食店営業ができなかった事案で、希望する営業が可能かどうかは法令上の制限を含め原則として借主自身が調査すべきものとして、貸主・仲介業者への請求を棄却しました。契約前に保健所・消防署・警察署へ事前相談を行い、使用目的を契約書に具体的に記載し、仲介業者の説明は書面やメールで記録化しておくことが重要です。
Q. 事務所の賃貸借で、通常損耗も借主負担とする原状回復特約は有効ですか。
A. 有効とされる場合が多いといえます。民法621条は通常損耗・経年変化を原状回復義務の対象から除いていますが、任意規定であり特約で変更できます。最高裁平成17年12月16日判決は、通常損耗を借主負担とするには補修の範囲が契約書に具体的に明記されるなど明確な合意が必要としましたが、事業用物件では、この要件を満たす特約の有効性が肯定される例が多く、小規模事務所について消費者契約法の適用やガイドラインの準用を否定した裁判例(東京地裁令和4年6月24日判決)もあります。
Q. 定期建物賃貸借の期間満了後、再契約を拒否されました。長年営業していることを理由に居続けることはできますか。
A. 定期建物賃貸借が有効に成立していれば、原則としてできません。借地借家法38条の定期建物賃貸借は更新がなく、期間満了により終了し、普通建物賃貸借における正当事由(同法28条)の制度は適用されません。ただし、契約書とは別の書面の交付による事前説明を欠く場合、更新がない旨の定めは無効となるため、契約締結時の書面と説明の経緯を確認する必要があります。
Q. 賃貸借契約の連帯保証人を個人に依頼する場合、注意すべき点はありますか。
A. 賃貸借契約に基づく債務の保証は、将来発生する不特定の債務を保証する根保証にあたるため、個人が保証人となる場合は極度額を書面等で定めなければ保証契約は効力を生じません(民法465条の2)。また、事業のために負担する債務の保証については、主債務者から保証人への財産・収支状況等の情報提供義務(同法465条の10)もあるため、契約書式と手続の双方を確認してください。
まとめ
事業用の建物賃貸借では、借主は「事業者」として扱われ、契約条項の文言がそのまま適用される場面が多くなります。希望する営業の可否は原則として借主が契約前に調査すべき事項であり、原状回復は特約により通常損耗まで借主負担とされ得、定期建物賃貸借であれば営業年数にかかわらず期間満了で終了します。使用目的、契約類型、期間と中途解約、原状回復の範囲、保証金の償却、賃料改定、保証、禁止事項の各条項は、署名前であれば修正交渉の余地があります。契約書と重要事項説明書の案を事前に入手し、専門家の審査を経たうえで締結することが、出店・移転に伴うリスクを抑える最も確実な方法です。
参考資料
- 借地借家法(e-Gov法令検索)(第28条・第32条・第38条)
- 民法(e-Gov法令検索)(第465条の2・第465条の10・第621条)
- 消費者契約法(e-Gov法令検索)(第2条)
- 宅地建物取引業法(e-Gov法令検索)(第35条)/宅地建物取引業法施行令(e-Gov法令検索)(第3条)
- 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(e-Gov法令検索)(第33条)/暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(e-Gov法令検索)(第9条)
- 国土交通省「『原状回復をめぐるトラブルとガイドライン』について」/国土交通省「建築基準法改正により小規模な建築物の用途変更の手続きが不要となりました」(PDF)
- 東京都「不動産取引に関する相談及び指導等の概要(令和6年度)の公表について」
- 警察庁「令和7年における組織犯罪の情勢」(PDF)/警視庁「東京都暴力団排除条例 Q&A」
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