従業員間の暴行・傷害、ハラスメント、業務中の事故による第三者の負傷など、企業活動に伴って生じる加害事案では、訴訟によらず当事者間の合意によって紛争を解決する「示談」が広く用いられます。もっとも、「示談金を払えば事件は終わる」という理解は正確ではありません。示談は法令上の用語ではなく、その実体は民法上の和解契約の一種であり、金額の合意のみでは紛争の終局的解決も、刑事処分の回避も保証されないからです。本コラムでは、示談の法的性質と成立までの手順、示談金の構成と事案類型別の実務上の水準、清算条項・宥恕文言を中心とする示談書設計の要点、従業員の加害行為について会社が負い得る使用者責任(民法715条)、および示談後も起訴があり得る非親告罪と告訴の取下げにより起訴できなくなる親告罪の区別について、企業側の視点から実務上の留意点を整理します。
示談の法的性質 ― 裁判外の和解契約
「示談」は法律に定義のある正式な用語ではなく、暴行やわいせつ行為など一方当事者の違法行為を原因とする紛争について、謝罪と損害賠償の内容を当事者間の合意により定めて解決する実務慣行を指します。その法的性質は民法上の和解契約の一種であり、訴訟手続内で行われる裁判上の和解と異なり、裁判外の合意である点に特徴があります。特に刑事事件に関連する場面で用いられることが多く、刑事手続の帰趨にも事実上の影響を及ぼします。
成立までの手順は、①当事者間の示談交渉(実務上は弁護士が代理することが多い)、②金額・条件の合意、③示談書の作成、④双方の合意による解決、という流れが標準です。このうち実務上最も重要なのは③の示談書の作成であり、口頭の合意では紛争の蒸し返しを防ぐことができません。
示談金の構成と事案類型別の水準
示談金には法定の基準や定価はなく、事案の内容と当事者の合意により決まります。被害者には示談に応じる義務がないこと、金額のみでは解決に至らない場合があることが前提となりますが、実務上、示談金は治療費等の実損害(実費)と精神的苦痛に対する慰謝料の2要素で構成されることが多く、事案類型別のおおまかな水準として、傷害を伴わない暴行事案で10万〜50万円程度、傷害事案で治療費実費に慰謝料を加えた数十万〜100万円程度、わいせつ事案で50万〜300万円程度、不同意性交等の事案で100万〜300万円程度(被害の程度等の事情により500万円を超える例もある)が目安として紹介されています。被害の内容・後遺障害の有無・被害者の処罰感情・加害者側の社会的立場等により大きく変動する点に留意が必要です。
企業内で生じる事案に即して整理すると、従業員同士の暴行・傷害では治療費と慰謝料をあわせて数十万〜100万円前後に収まる例が多く、ハラスメント事案では行為の内容・期間に応じて慰謝料が数十万〜数百万円の幅で変動します。業務中の事故により顧客・第三者を負傷させた場合には、治療費・休業損害・慰謝料の積算により、重傷事案では数百万円以上に達することも珍しくありません。
使用者責任(民法715条) ― 従業員個人の問題では終わらない
企業側にとって最も重要なのは、従業員が「事業の執行について」第三者に損害を加えた場合、民法715条の使用者責任により、会社も従業員と連帯して損害賠償義務を負い得るという点です。「事業の執行について」の範囲は判例上広く解されており、営業車での移動中に生じた人身事故や、会社の懇親会に関連して生じた従業員間の暴行事件などが事業執行性を認められ得る典型例です。被害者側の立場からは、資力の確実な会社への請求が合理的な選択となるため、会社が数百万〜数千万円規模の連帯責任を追及される可能性があります。従業員の加害行為に関する示談は、従業員個人の問題ではなく、会社のリスク管理の問題として位置付ける必要があります。
示談書設計の要点 ― 清算条項・宥恕文言・口外禁止
示談書の中核となるのは、示談金の額・支払方法に加えて、「本件に関し、本示談書に定めるもののほか、何らの債権債務が存在しないことを相互に確認する」旨の清算条項です。清算条項を欠く示談書では、支払後に民事上の追加請求を受けるリスクが残ります。刑事事件に関連する示談では、「加害者を宥恕し、処罰を求めない」旨のいわゆる宥恕文言の有無が、検察官の起訴・不起訴の判断や量刑上の評価に事実上影響します。このほか、事案に応じて口外禁止条項、当事者間の接触禁止条項等を検討します。条項設計を誤ると、支払を済ませたにもかかわらず紛争が終結しないという事態が生じ得るため、示談書の作成・確認は弁護士の関与のもとで行うことを推奨します。
非親告罪と親告罪 ― 示談が刑事手続に与える影響の限界
刑事事件に関連する示談について、企業側が正確に理解しておくべきなのは、示談の成立が起訴を妨げる保証にはならないという点です。暴行罪・傷害罪のほか、性犯罪は2017年(平成29年)施行の刑法改正により非親告罪とされており、これらの罪については、被害者の告訴がなくても、示談が成立し被害届が取り下げられていても、検察官は起訴することができます。実務上、示談の成立と宥恕文言の存在は不起訴処分の方向に働く重要な情状ですが、事案の悪質性、社会的影響、同種前歴等によっては、示談成立後に起訴される例もあります。
他方、器物損壊罪や名誉毀損罪などの親告罪については、告訴の取下げにより起訴ができなくなるため、示談交渉において告訴取下げを合意することの意味が非親告罪の場合と大きく異なります。自社の事案がいずれの類型に当たるかを初動段階で見極めることが、示談交渉の方針設計の出発点となります。あわせて、当事者が自己判断で被害者と直接交渉することは、やり取りが証拠化されるリスク、脅迫・口止めと受け取られるリスクを伴うため避けるべきであり、刑事事件に関連する場合、金額が大きい場合、相手方に弁護士が就いた場合には、企業側も弁護士を選任して対応すべきです。
よくあるご質問
Q. 示談金を支払えば、刑事事件にはならないのですか。
A. 必ずしもそうではありません。暴行罪・傷害罪や性犯罪などの非親告罪は、示談が成立していても検察官が起訴することができます。示談の成立は不起訴や量刑上有利に考慮される重要な事情ですが、保証ではありません。親告罪(器物損壊罪・名誉毀損罪等)については、告訴の取下げにより起訴ができなくなります。
Q. 示談書にはどのような条項を設けるべきですか。
A. 示談金の額・支払方法に加え、清算条項が中核です。刑事事件に関連する場合は宥恕文言の有無が刑事処分に事実上影響します。事案に応じて口外禁止条項・接触禁止条項も検討し、必ず書面化すべきです。
Q. 従業員が起こした事件について、会社も賠償を負担しなければならないのですか。
A. 従業員が「事業の執行について」加えた損害については、民法715条の使用者責任により、会社も連帯して賠償義務を負い得ます。営業車での事故や会社行事に関連する暴行事件などが典型であり、被害者側は資力の確実な会社に請求するのが通常です。
まとめ
企業の示談対応の要点は、①示談は民法上の和解契約であり、金額の前に条項設計(清算条項・宥恕文言・口外禁止等)を誤らないこと、②示談金は実損害と慰謝料で構成され、事案類型別の水準はあくまで目安であって、被害者に応諾義務はないこと、③非親告罪では示談成立後も起訴があり得る一方、親告罪では告訴取下げが決定的な意味を持つため、事案の類型を初動で見極めること、④従業員の加害行為には使用者責任(民法715条)により会社も連帯責任を負い得るため、会社のリスク管理として対応すること、⑤当事者による直接交渉を避け、刑事関連・高額・相手方に弁護士が就いた場合には必ず弁護士を選任することの5点に整理できます。当事務所では、従業員の加害事案・ハラスメント事案・事業活動に伴う事故に関する示談交渉の代理、示談書の作成・レビューを、顧問弁護士として初動段階からご支援しています。トラブル発生後の対応はもとより、発生前の相談体制の整備についてもご相談ください。
参考資料
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本コラムは一般的な情報提供を目的とするものであり、個別の事案に対する法的助言ではありません。法令・裁判例等は2026年8月時点の情報に基づきます。実際のご対応にあたっては、最新の法令・通達をご確認のうえ、専門家にご相談ください。
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