クリニックの新規開業や、後継者不在を背景とした第三者承継(M&A)は、近年ますます身近なテーマとなっています。いずれの場合も、行政手続から契約、労務、患者対応まで多岐にわたる論点を整理する必要があります。本コラムでは、開業・承継を円滑に進めるために確認しておきたい法的チェックポイントを、弁護士・医師の視点から解説します。
開業時の主な手続
新規開業にあたっては、医療法・健康保険法をはじめとする各種手続が必要です。スケジュールに余裕をもって準備することが大切です。
- 診療所開設届(個人開業の場合)または開設許可
- 保険医療機関の指定申請
- 物件の賃貸借契約・内装工事に関する契約の確認
- スタッフの雇用契約・就業規則の整備
個人開業の場合、診療所を開設したときは、開設後10日以内に都道府県知事(保健所を設置する市・特別区ではその長)への届出が必要です(医療法8条)。これに対し、医療法人その他の法人が診療所を開設する場合には、開設前に医療法7条に基づく開設許可を受けなければなりません。保険診療を行うためには、健康保険法65条に基づき、地方厚生局に保険医療機関の指定を申請します。指定は原則として月の初日に効力が生じるため、内装工事の完了、医療機器の搬入、スタッフの雇用開始、融資の実行といった各スケジュールを指定日から逆算して設計することが、開業準備の実務では重要になります。また、物件の賃貸借契約では、診療所としての用途使用の可否、造作買取・原状回復の範囲、承継時の賃借権譲渡・転貸の条項をあらかじめ確認しておくと、将来の承継の際の支障を減らすことができます。
第三者承継(M&A)のスキーム
個人開業医からの承継
売り手が個人開業医の場合、原則として、買い手が新たに開設手続を行い、設備や患者の引継ぎは事業譲渡として整理します。保険医療機関の指定は承継者が改めて取得する必要がある点に注意が必要です。事業譲渡契約では、譲渡対象となる資産(医療機器・什器・在庫・屋号・ウェブサイト・電話番号等)の特定、医療機器のリース契約や物件の賃貸借契約の承継に必要なリース会社・賃貸人の承諾取得、売主の競業避止義務の範囲(期間・地域・診療科目)などを定めます。スタッフの雇用については、使用者は労働者の承諾を得なければその権利を第三者に譲り渡すことができないため(民法625条1項)、承継後も勤務を継続してもらうには従業員一人ひとりの個別同意(転籍同意)が必要です。勤続年数や有給休暇の取扱いを含めた条件を早めに提示し、キーパーソンの離職を防ぐことが承継の成否を左右します。
医療法人の承継
医療法人の場合は、出資持分の譲渡(持分あり医療法人の場合)や、理事・社員の交代によって経営権を移転する方法などがあります。法人の類型によって取り得るスキームが異なるため、早期の確認が重要です。持分の定めのある社団医療法人(平成19年施行の第5次医療法改正前に設立された経過措置型医療法人)では、出資持分の譲渡と社員・役員の交代を組み合わせるのが典型ですが、持分の定めのない医療法人では譲渡の対象となる「持分」が存在しないため、社員の交代と理事・理事長の交代によって経営権を移転することになります。いずれの場合も、社員総会の運営、理事長の変更登記、都道府県への役員変更の届出、定款変更が必要な場合の認可申請といった医療法上の手続を、譲渡実行のスケジュールに組み込む必要があります。また、法人の経営権を承継するスキームでは、法人が負っている債務や偶発債務(後述の未払残業代・診療報酬の返還等)をそのまま引き継ぐことになるため、デューデリジェンスの重要性が一段と高まります。
なお、売主側にMS法人(メディカルサービス法人)がある場合には、その株式を併せて譲り受けるのか、MS法人との取引契約を解消するのかも論点となります。MS法人が株式会社であり事業譲渡の方法によるときは、会社法467条に基づく株主総会の承認決議など、会社法上の手続にも留意が必要です。
デューデリジェンスで確認すべき点
- 行政指導・保険診療報酬の返戻・個別指導や監査の履歴
- 未払残業代などの労務リスク
- 医療機器のリース・借入金などの債務
- カルテ等の患者情報の適切な引継ぎ(個人情報保護への配慮)
このうち保険診療に関するリスクは、医療機関特有のものとして特に重要です。過去に個別指導や監査を受けた履歴、診療報酬の自主返還の経緯がある場合、承継後に同種の指摘を受ける可能性や、法人承継スキームでは返還債務自体を引き継ぐ可能性があります。労務面では、固定残業代の設計不備や休憩時間の運用実態などに起因する未払残業代(労働基準法37条の割増賃金)が、クリニックのデューデリジェンスで最も頻繁に発見される簿外債務の一つです。発見されたリスクは、譲渡価格への反映、クロージングの前提条件化、表明保証・補償条項による手当のいずれかで処理することになります。
患者情報(カルテ)の引継ぎと個人情報保護法
カルテ等の患者情報は、承継の対象のなかでも取扱いに最も注意を要するものです。個人情報保護法27条1項は、個人データを第三者に提供する場合には原則として本人の同意を得ることを求めていますが、合併その他の事由による事業の承継に伴って個人データが提供される場合、提供を受ける者は「第三者」に該当しないとされています(同法27条5項2号)。したがって、事業譲渡や法人の経営権移転に伴うカルテの引継ぎ自体は、患者一人ひとりの同意を取得しなくても直ちに違法となるものではありません。
ただし、承継により個人データを取得した承継者は、承継前の利用目的の達成に必要な範囲を超えて、本人の同意なくその情報を取り扱うことはできません(同法18条2項)。また、診療録には医師法24条2項により5年間の保存義務があるため、承継の際には、誰がどの範囲の記録を保管・管理するのかを契約で明確にしておく必要があります。あわせて、承継の事実と患者情報の引継ぎについて、院内掲示やウェブサイトでの告知により患者に周知しておくことが、トラブル予防の観点から実務上推奨されます。
契約書で手当すべきポイント(チェックリスト)
- 譲渡対象(資産・契約・許認可・患者情報・屋号やウェブサイト等)の特定と、承継手続の役割分担
- クロージングの前提条件(保険医療機関指定の申請準備、リース会社・賃貸人の承諾取得、キーパーソンの転籍同意)
- 表明保証条項(行政処分・個別指導・返還金・労務紛争・訴訟の不存在等)と、違反時の補償条項(上限額・期間)
- 売主の競業避止義務の範囲(期間・地域・診療科目)の明確化
- 従業員の処遇(転籍同意の取得方法、勤続年数・有給休暇・退職金の取扱い)
- カルテ等の患者情報の引継ぎ方法・保管責任と患者への周知方法
- 承継の対外公表・患者への案内(挨拶状・引継ぎ診療)のタイミングと内容
- MS法人を併せて承継する場合の株式譲渡または契約解消の条件
医療機関のM&Aでは、一般的な企業のデューデリジェンスに加え、保険診療・行政対応・患者情報といった医療特有の論点の確認が欠かせません。
よくあるご質問
Q. クリニックを承継した場合、保険医療機関の指定はそのまま引き継げますか。
A. 個人開業医からの事業譲渡や、法人が新たに診療所を開設する形の承継では、保険医療機関の指定を引き継ぐことはできず、承継者が健康保険法65条に基づき改めて指定を申請する必要があります。指定は原則として月の初日に効力が生じるため、旧医療機関の廃止と新医療機関の指定の間に保険診療の空白期間が生じ得ます。承継の場合の遡及指定の取扱いは地方厚生局ごとの実務運用によるため、事前に管轄の地方厚生局に相談し、廃止・開設・指定申請の日程を一体で設計することが不可欠です。なお、医療法人の経営権を社員・役員交代等により移転する場合は、開設者である法人自体は変わらないため、指定を取り直す必要は原則としてありません。
Q. 前院長のカルテは、患者の同意なく引き継いでよいのですか。
A. 事業の承継に伴って個人データが提供される場合、提供先は個人情報保護法上の「第三者」に該当しないため(同法27条5項2号)、患者一人ひとりの同意がなくても、承継に伴うカルテの引継ぎ自体は直ちに違法とはなりません。ただし、承継後は承継前の利用目的の範囲内でのみ取り扱う必要があり(同法18条2項)、診療録の5年間の保存義務(医師法24条2項)を誰が果たすのかも契約で明確にしておくべきです。院内掲示等による患者への周知も実務上推奨されます。
Q. 承継後に未払残業代などの簿外債務が発覚した場合、誰が負担することになりますか。
A. スキームによって異なります。医療法人の経営権を承継した場合、債務は法人に帰属したままであるため、経営を引き継いだ側が事実上その負担を負うことになります。事業譲渡の場合は、契約で引き受けると定めた債務以外は原則として承継しませんが、雇用関係を引き継いだ従業員との間では過去の労働条件の取扱いが問題となり得ます。いずれの場合も、デューデリジェンスでリスクを把握したうえで、譲渡価格への反映や表明保証・補償条項(売主が一定期間・一定額まで損失を補償する条項)によって契約上手当しておくことが基本的な対処となります。
まとめ
クリニックの開業・承継は、医療制度への理解と、契約・労務・M&Aの実務知識の双方が求められる領域です。当事務所では、医師免許を持つ弁護士が、医療現場の実情を踏まえて、スキームの設計からデューデリジェンス、契約交渉までを一貫して支援します。開業・承継をご検討の際は、お早めにご相談ください。
参考資料
- 医療法(e-Gov法令検索)
- 健康保険法(e-Gov法令検索)
- 民法(e-Gov法令検索)
- 個人情報の保護に関する法律(e-Gov法令検索)
- 会社法(e-Gov法令検索)
- 厚生労働省 医療法人・医業経営のホームページ
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本コラムは一般的な情報提供を目的とするものであり、個別の事案に対する法的助言ではありません。実際のご対応にあたっては、最新の法令をご確認のうえ、専門家にご相談ください。
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